子供の教育
前記事 怒る習慣はどこから来た? - いつの日か霧が晴れて で書いたように、私は「怒るほうが都合が良ければ、怒ることを気に入る」という仮説に辿り着いた。そこで、私はこの仮説を、自分にとってのもう一つの重要課題である、子供の教育に役立てようと考えた。
娘は4歳になるが、よく怒る。怒るときのパワーは非常に激しい。2歳くらいにはそういう傾向がはっきりしていたので、ある程度、子供の生まれついての性質というものも否定できないとは思っている(これは自分についても言える)。ただ、私の実家では、怒りっぽさはすべて生まれついての性質だとして怒りについて教育を施すという観点が希薄だったが、私は今は教育ということに可能性を見いだしている。
勇気づけと「怒り」
アドラー心理学では、子供に対して*1「勇気づけ」を行うことが推奨される。これは、(子供が自立した大人になるにあたって)望ましくない状況の背景には、子供が勇気を挫かれているということが潜んでおり、親が「勇気づけ」をしていくことで自信や貢献感を持てるように助けることができるという考え方だ。
私は、この方法を娘の怒りに関わる教育にも使っていけると感じた。この方法を実践するにあたっては、ステップを次の2つに分解できる。
- どのように勇気を挫かれているから、怒りを用いるのか?
- どのような勇気づけをすれば怒りの利用を減らすのに効果があるか?
怒らない勇気
最初のステップとして、怒りを用いることが、勇気を挫かれていることと結びついているかということを考えた。すると「怒るほうが都合が良ければ、怒ることを気に入る」という私が発見した構造の裏にも、たしかにこの勇気を挫かれている構造があるように思えた。
- 子供時代の自分を思い返したとき、私は穏やかな会話だけで自分の意を通せるという見通しを持っていなかったことに気づいた。相手にうまく伝わらないかもしれない。馬鹿にされて恥ずかしい思いをするかもしれない。否定されるかもしれない。取り合ってもらえないかもしれない。あるいは、相手が急に怒り出すかもしれない。"自分が怒らないで話してもきっとうまくはいかないだろう。" …これは、たしかに勇気を挫かれていたと言えるかもしれない。
- 実家では、仮に穏やかに主張する子供と、怒りで主張する子供が兄弟二人で主張を争ったとすれば、つねに怒りで主張するほうが有利だったろうという想像をすることができる。怒っているほうがより真剣に困っており、妥協の余地がなく、正当性があるように見えるからだ。それに、仲裁する人の求めていることは平和になることなので、騒いでいる人に静かになってもらうことが主要な目的になる。こういった点でも、怒りを使わない行動をすることについて勇気を挫かれていたかもしれない。
- また、全般的に、自分のネガティブな気持ちを伝えるということについて勇気を挫かれたままの状況に置かれていたというふうにも感じている。例えば、不快な思いをしたり、傷ついたときに、それを穏やかに伝えることは常に難しかった。今でも難しい。これは、伝えること自体が自尊心を傷つけ、無力感につながる上に、伝えた結果、さらに自尊心が傷つくリスクが多分にあったからだと考えている。
- つまり、「怒らない勇気」が足りない状態だったと見ることができる。*2
これらの「勇気を挫かれている状況の仮説」を、2つめのステップにつなげることができる。娘を怒る習慣から遠ざけるために、どんな勇気づけをして行こうか?ということだ。
- 自分が怒らなくても丁寧に話を聞いてもらえる、尊重してもらえるという見通しが持てるように勇気づける。
- 怒らないで行動することに価値や自信を持てるように勇気づける。
- 自分の気持ちを言うことが自分の価値を損なわず、家族に歓迎されると感じることができるように勇気づける。(もちろん、これは家族から最終的に自分の期待した反応が得られるという体験を提供するいう意味ではない。歓迎はされるけれども、意見が一致しないこともあり、それでOKなのだということを学んで行く必要がある。)
親である私や夫が意識的にこういった勇気づけに取り組めば、そうでない場合に比べて怒りを使う必要性は低くなり、怒りを使わないことを選択しやすくなるはずだ。私はそのように信じることにした。
接し方の基本方針
具体的に娘への接し方を変えるにあたって、基本方針としては、アドラー心理学的にも推奨される、子供と丁寧にコミュニケーションするという方法を目指すことにした。
これは、世に言う「子供の話を良く聞いてあげましょう」といった情報と似ているが、それとは少し違うかもしれない。どちらかというと「子供だからといって軽く見ずに、一人の人間として尊重してコミュニケーションをしましょう」ということに近い。核心となるのは「相手の話を根気よく聞いて、丁寧に自分の考えを答える。一方的にねじ伏せない。」ということだ。
ちなみに、この「ねじ伏せない」ということは、アドラー心理学で言われるところの「叱らない」にも通じる。「叱らない」という話は奥深く、接し方を変え始めた当初は良く分からなかったものの、最近では感覚がわかってきたりしているので、また別の記事として書いていきたいと思う。
娘の話を丁寧に聞く
基本方針に沿って、私は具体的に娘への接し方を変えていった。まず心がけたのが、話を丁寧に聞くことだ。
接し方を変え始めた頃までは、娘は「話を聞いて」「自分が話そうとしたのにママが話している」ということを強く抗議することが多かった。私は話を聞いていない自覚はまったくなかったが、今思うと、私は話を聞こうとしていたのではなく、問題を解決しようとしていた。
例えば、娘が「靴下が…」といえば、「靴下がどうしたのか、自分はなにをしたらよいのか?」を1分1秒でもはやく把握したくて躍起になった。その結果、娘が話すことを遮って自分が話し始めたりしてしまうのである。
今でもこれを完全に押さえ込めたわけではないが、自分のフォーカスを「問題を解決すること」ではなく「聞くこと」「聞いてもらったと感じてもらうこと」「相手にちゃんと話をしてもらうこと」に合わせる努力をするようになった。
最近では、「話を聞いて」「自分が話そうとしたのにママが話している」という類の抗議は、以前と比較すればだいぶ減ってきたように感じる。
夫と協力して進める
アドラー心理学の本を読む以前は、夫婦で娘への接し方を相談するということはかなり少なかった。夫婦の間に共通の方針はなく、お互いの許容範囲から外れる状況がもしあれば、相手に少し言ってみるといったやり方だったと思う。
その状況は、ガラリと変わった。私は夫に、娘を怒る習慣から遠ざけるためのアイディアをどんどん話した。夫も強い興味を持って話を聞いてくれた。
その上で、夫の娘への接し方について、たまに個別にフィードバックをしたりするようにもなった。たとえば、娘がTVをみたいとか、お菓子を食べたいとか主張するときに、ただ「ダメ〜」「もうおしまい〜」と言うのではなくて、そう思う理由を伝えたりすると良いのではないか、というようなことを。
このように、共通の方針のもとでお互いにフィードバックできる体制になりつつあることは、娘の教育効果を高める上でも、夫婦の連帯感を強くする上でも、とても良い変化であると感じている。
娘の変化
接し方を変えてみて、娘は変わってきたなと感じている。*3
例えば次のようなところが変わってきている気がしている。
- 前よりも自分の考えや気持ちをよく話すようになった
- 前よりも親の言うことに納得するようになった
- 希望的観測かもしれないが、怒る頻度が前よりは少なくなった
- 希望的観測かもしれないが、以前なら怒っていたようなケースで踏みとどまることが増えてきた
ただ、頻度は以前より減った気がするものの、いったん怒りモードになると非常に激しいということは引き続き悩みの種だ。
強い怒りの底には言えない一言が隠れている
娘は例えば往来で激しく怒り出すことがたまにある。
そういう場合は、以前なら適当なタイミングで怒鳴って強引に自宅まで抱えて運んだりしていた。アドラー心理学を学んでからは、自分が怒りを使って子供をねじ伏せるということは長期的には問題を悪化させると理解したので、最近はその場に踏みとどまって、ひたすら根気よく穏やかに丁寧に対応し続けるようにしている。
怒りモードの娘とのやりとりは、次のような感じだ。
娘「○×した。ママが悪い! 謝って!」*4
私「○×していないし、していたとしても悪くないと思う。謝らない。あなたがそんなふうに振る舞うのは良くないことだと思うよ。」
だいたいこのような会話(相手は怒って暴れている状態)を30分以上ただ繰り返すことになったりする。周囲には迷惑な感じになるのが困るけれども、できるだけ腰を据えて対応し続けることにしている。
辛抱強くこれを繰り返していると、娘の様子が変わってくるタイミングがある。本当の気持ちを言おうとするようなそぶりが出てくるのだ。やがて、本当の気持ちをポツンと言う。「〜が悲しかったの」とか「〜がわからなかったの」とか、そういう話が出てくる。
これが出ると、怒りモードは終わる。私は「そうだったの、よく言ってくれたね」というような感じでギュっとする。娘は急激に落ち着き、次の瞬間にはもう違う会話が始まることもある。
この、暴れた末に最後に出てくる「本当の気持ち」を、早い段階で勇気を持って言い出せることが一つの目標になるんだろうなという気がしている。