いつの日か霧が晴れて

nay3の研究ノート

怒りの文化についての考察

怒りの文化

以前書いた記事 怒る習慣はどこから来た? - いつの日か霧が晴れて で触れたとおり、私は、習慣として怒っている人たちの間には、ある種の共通的な文化があると感じている。この記事では、そのことを紹介してみたいと思う。

私がこの文化の存在に気づいたのは、アドラー心理学と出会うよりも2〜3年くらい前のことになる。(従って、このアイディアには必ずしもアドラー心理学に沿わないものも含まれているかもしれない。)

気づいた当初、私はこの文化に自分なりの名前をつけた。その名前は「怒り貨幣経済である。

「怒り貨幣経済」の特徴

私が思う「怒り貨幣経済」の特徴は次のようになる。

  • 習慣として怒っている人たちは、自分の怒りも他人の怒りも非常に気になる。怒りは基本的に着目すべき現象、解決されるべき問題だと考えている。
  • 誰かが怒っていることはある種の「チャレンジ(挑戦)」である。怒りに “正当性” があると認められれば怒った人の勝利。認められなければ怒った人の敗北。怒った人は、怒りを向けた相手から勝利の対価として謝罪・償いを得ることができる

私が貨幣経済という比喩を思いついたのは、このようにチャレンジして対価を得ようとする様子が一種の取引であって、「怒り」や「謝罪」を貨幣のように相互にやりとりすることで様々な不満や衝突を解決するアプローチであるからだ。このやりとりには、独特の節度があって、一種の洗練された共通的な手続き(プロトコル)がある。

その共通的なプロトコルとは、次のようなことである。

  • 誰かが怒りを表明してきたら、対応しなければならない。聞いてもよし、怒り返してもよし。スルーするということはNG。
  • 誰かが怒っており、怒りを向けられた人を含むその場の人たちによってその怒りに正当性が認められるとの判断が下された場合には、怒りを向けられた人は謝らなければならない。正当性を認めないならば、反論しなければならない。正当性を認めないのに謝るのは侮辱的な行為(ゲームでわざと負けるような行為)。正当性を認めるのに謝らないということは不正である(無銭飲食のような行為)。
  • 相手が謝ったならば、基本的には攻撃を止めなければならない。謝っている相手を叩き続けるのはNG。ただし、この原則の遵守は、怒りの深さや相手との関係性によって減免される場合がある。

「怒り貨幣経済」の住人は見分けやすい

この文化に染まっているかどうかは、日々の言動からすぐに読み取ることができる。私が思う「怒り貨幣経済」の住人の特徴は次のようになる。

  • 他人が怒っていることを常に気にしている。友達やパートナーに「怒っているか」をよく尋ねる。誰かが怒っているそぶりだと気になっていてもたってもいられなくなり、その誰かの怒りに正当性があるのかないのかについて第三者から意見を求めて回る。
  • 自分が怒るとき、その怒りの “正当性” が認められ、相手が間違いを認めて謝罪することの実現を目指す。それが得られるか、得られないと納得するまで怒り続けようとする。
  • 自分が怒る際には、怒る “正当性” があるかどうかを気にする。必要に応じて周囲に「こういう状況なのだけれど、怒ってもいいと思う?」といったリサーチを行う。十分な “正当性” がなかったと判断すれば、すでに感情的になっていても、怒りを引っ込めることができる。
  • 他人が謝ったかどうかを気にしている。謝るべきと自分が考えるシーンで他人が謝らないとき、強い不満(謝るべき相手が他人ならば義憤)を抱き、非難も辞さない。
  • 自分自身がよく謝る。謝るべき場面で謝らないという失点を避けようとする。
  • 他人に怒ることを勧めたり、自分が代わりに怒ったりする。
  • 怒ること自体を悪いことだと思っていない。正当性さえあれば、当然行うべき振る舞いだと考えている。自分の強さや正しさ、善意、独創性などの発露として自慢することさえある

念のため申し添えておきたいが、私はこのような怒り文化の中にいる人たちが悪いとは思っていない。嫌いでもない。このような文化の中にいるということは、ある種公正に礼儀正しく*1振る舞うことを誓っているということでもあると思う。

怒ることは賭け金を積むこと

住人の特徴にも挙げたとおり、この文化の中では、怒ることはそれ自体が悪いことだとは見なされていない。"正当性" のある怒りはむしろ正義であり、当然の権利とされている。ただし、怒りを表明した時点では、怒っている人は自分では怒りに “正当性” があると思っているが、相手がそれを受け入れるかわからないという状態となっている*2。怒りの表明によって、相手との間で “正当性” について審議するプロセスが開始され、審議の末に相手が納得してはじめて “正当性” が追認されることになる。このように、まず怒りを表明して、そのあとで審議がされ勝敗がつくという順序になるので、「怒り貨幣経済」において怒りを表明することというのはチャレンジ(挑戦)であり、ゲームにおいて賭け金を積むことに似ている。

ちなみに、最終的に “正当性” が認められないという可能性もある。その場合は、怒った人は、相手や周囲に迷惑をかけたことを謝罪しなければならない。チャレンジ失敗で賭け金を失うことになるわけである。なので、薄々敗北を悟っても、突っ張るという選択肢がとられることも多かったりする。このあたりの塩梅は、ポーカーなどにも似ている。怒り続ければ続けるほど、賭け金が多くなり、負けたときの被害が大きくなり、後退しづらくなるのだ。

「怒り貨幣経済」は世代間で受け継がれる

私の想像だが、「怒り貨幣経済」の住人たちの育った環境においては、おそらく「怒り貨幣経済」がシッカリと回っていたのではないかと思う。単に怒る人が身近にいるということだけではなく、怒りの表明 → 正当性の審議 → 勝敗の決着(誰かが謝る、誰が悪いか意見が一致する)という一連の活動が、規則的に、ある種の公平性を保って回っていたかどうかがポイントだと思うのだ。この一連の活動が回り続けるのを見ることで、怒りの文化についての信念が醸成されていくのである。*3

育った家の文化がそうであれば、自ずと自分が築く家庭の文化もそうなり、子供にも受け継がれていくことになりやすいのではないかと思っている。

「怒り貨幣経済」に染まっていると、それに属さない人のことが理解しづらい

自分の体験から感じるのだが、この怒りの文化に染まっていると、それが当たり前の世の中のルールのように感じられてしまい、このルールに沿って動かない人たちについて想像したり理解するのが難しくなる。たとえば、次のような行動をとる人たちについて理解・共感するのは難しくなる。

  • 自分が怒っても(文句・苦情を言っても)、聞いている感じではあるのに、謝らない人
  • 不愉快な気持ちを抱えているように見えるのに、それ以上押しては来ない人
  • 何をされても怒らないように見える人
  • 怒ること自体に文脈によらず批判的な人
  • 怒ることにいつも共感を示さない人

こういった人たちに対して、怒り文化の人が怒ったときには、相手がプロトコルに沿った対応をしてくれないために、怒り感情の回収の目処が立たずに苦労することもある。

しかし、だからといって、怒りの文化の人がこういった怒り文化圏外の人たちのことを嫌いになったり、付き合わないということでは必ずしもない。むしろ逆で、怒りの文化の人自身は他人から怒りを向けられることが非常に大きなストレスになる*4ことも多いので、「自分と同じような仕組みでは自分に対して怒ってこない」ような相手に対しては、特別に素晴らしい価値を感じたりもすると思う。

まとめ

以上のように、本記事では、長年私の脳内で温めてきた怒りの文化の存在について書いてみた。私はこれまで出会った人たちに対する観察を踏まえて、これがある程度普遍性があるのではないかという想像のもとに書いているが、もともとは私の育った家のシステムに取材しているので、ひょっとしたらある特定の一家の話に過ぎないのかもしれない。

私自身は、怒りを利用しない自分になるということを目指しているので、この文化が怒りを利用する生活習慣を助長するという点については良くないと今は考えている。怒りを取引に使わなくても、言語をつかって穏やかに話し合いを行うことが可能なはずだと信じている(実践は練習中)。この文化に染まった人は、他人もこの文化の中にいると信じ込みやすく、文化の外側から自分の振る舞いを見てみることがとても難しい。これは、文化の中にいる人にとっても、外にいる人にとっても、不幸なことだと思う。このような考察が、文化の壁を超えてお互いを理解しあうということの一助になったら嬉しいと考えている。

*1:この文化の中では礼儀正しく怒ることが求められるのに対して、怒ることがそもそも礼儀正しくないという発想が存在しないことは大変興味深いと今では感じる。

*2:アドラー心理学的に言えば、相手に自分の意見の正当性を受け入れさせるための手段として、怒るいう手段を取っているということになるだろう。

*3:怒る人が身近にいても、一連の活動が規律を持って回っていなかった場合には、怒りの文化についての信念の醸成には至らないように思われる。

*4:自分は怒っておきながら他人から怒られることが強いストレスになるというのは、余人から見れば不思議かもしれない。基本的に怒り文化の人は、文化的な縛りによって、怒りを向けられた場合にスルーすることが難しいため、強いストレスに感じやすいのだと考えている。