いつの日か霧が晴れて

nay3の研究ノート

怒る習慣はどこから来た?

怒りを作り出す目的を探る

前記事 アドラー心理学と「怒り」 - いつの日か霧が晴れて で書いたとおり、私は “もっと怒らないようになりたい” という願望を持っていた。アドラー心理学の本を読みふけることで、私はその願いが実現可能であることに気づいた。アドラー心理学によれば、私が怒るのは、私自身の目的を達成するためだという。

いったい私は何のために怒りを作り出しているのか?

アドラー心理学には、人が何のために怒るのかについても豊富な示唆があり、私も色々なことを考えた。この記事では、自分の怒りの目的について考えたときに、真っ先に心にのぼってきたことについて書きたいと思う。

ライフスタイルの選択

アドラー心理学では、人は自ら生き方を選ぶとされる。この生き方は「ライフスタイル」と呼ばれる。ライフスタイルを選ぶ年齢は10歳前後とされているから、私もその頃に「怒りを作り出して利用していく(ことを要素として含む)ライフスタイル」を自ら選択したということが考えられる。

ここでいう「怒りを作り出して利用していく(怒る)こと」は、人と並んで歩くときに右側を歩きたいかどうかとか、買い物に行く時にエコバッグを持っていくかとか、そういう何らかの好みや作戦のようなものに似ていると見ることができる。そういう意味で、怒ることはある種の生活習慣のようなものとも言えるだろう。

それでは、なぜ私は怒るという生活習慣が気に入り、それを使い続けるライフスタイルを選択したのだろうか?

アドラー心理学の本を読みながら、真っ先に気になったのは、子供時代のことだった。

原点 - 実家における「怒り」の利用価値

まず、「怒り」の探求 - いつの日か霧が晴れて で紹介したように、私の実家では家族がよく怒っており、怒るということは人間の天然の素質や性格であると考えられていた。アドラー心理学を読んだ後では、怒るということは良くない生活習慣のひとつ位に思えてくるが、当時の実家ではそのような考えは一般的ではなかった。

  • 怒りやすい性格であるか(だから仕方ない)
  • 怒ることが理解できる状況であるか(だから仕方ない)
  • 怒った理由に正当性があるか(だから当然だ)
  • 怒りの感情が解決されるかどうか

こういったことのほうが常に家の人々の関心事だったといえる。*1

このように、家族が「怒り」に慣れきっており、互いが「怒り」を利用することを自然・当然なことと考えていたことは、私が「怒り」を使うライフスタイルを選択することになった重要な背景だと思う。

ただし、それはあくまでも背景であって、動機としては弱い。さらに考えているうちに、私はもう一つ、重要な手がかりに気づいた。

それは、怒ったほうが自分の意を通しやすいという構造の存在だ。

手っ取り早く自分の意を通すために

よくよく実家の光景を考えてみると、特に母に対しては*2、自分が何かを言ったとしても自分の期待どおりに話を聞いてもらえるとは限らなかった。生返事が返ってくることも多かったし、あっという間に別の話に変えられることもあった。ほかの家族に話をとられもした。あるいは、次から次へと不要な提案やちょっとした干渉が降ってきて、ひとつひとつ返事をしても果てがないように感じられることもあった。そんな中で、語気を荒げたり、声を大きくするということは、「ちょっと真面目に話を聞いてちょうだい」「これは私にとって大事な問題なので、注目してちょうだい」あるいは「本当にもう話を切り上げたい気持ちなので静かにして」というようなマーカーの作用を持っていたと思う。思い返せば、家族はみなこのマーカーを使っていたのではないかという気がする。そのようなマーカーが出現すると、ほかの家族は注意を向けて丁寧に話を聞いたり、相手の気持ちを尊重して引き下がるという具合に態度を変えることが普通だった。

この光景を思い出したとき、私は、自分が怒りを使うようになった最初のきっかけを掴んだと思った。根気づよく穏やかに会話によって解決するよりも、ここぞという場面に的を絞って「怒り」を使うほうが、効率よく家族の注意を引き寄せ、話を聞いてもらったり、相手の行動を変えてもらうといった欲求を達成できたのだ。

子供を「怒り」という生活習慣から遠ざけるために

「効率がよかったから、怒るという生活習慣が気に入った」というこの仮説を思い付いた途端、私はこれがとても重要なアイディアであることに気づいた。前に述べたとおり、私は自分の子供を、怒るという生活習慣からできるだけ遠ざけたいと願っている。もしもこの仮説に妥当性があるならば、親として私がとるべき道は明らかだ。

子供に「怒るほうが効率が良い」と感じさせなければ良いのだ。

そのために親はどうすればいいのか? 私は実際に子供への接し方をどのように変えていったのか? という話を、次回の記事で書いて行きたいと思う。

*1:私は「怒り」に対してこのようなアプローチを人々の間で共有する文化があると感じており、その文化にひそかにオリジナルの名前を付けている。これについてはぜひ別の記事で紹介したい。

*2:いまは何の責める気持ちもなく、むしろ自分が近い状況にあり、参考になるとすら感じている。