アドラー心理学の衝撃
前回の記事(「怒り」の探求 - いつの日か霧が晴れて )で書いたように、怒りが自分の人生に与える影響について悩むようになっていた私は、岸見一郎氏の著作を通じたアドラー心理学との出会いによって、大きなヒントを得ることになった。そこで、それが具体的にどんなヒントだったのかをご紹介したいと思う。
「怒り」は出し入れできる道具である
アドラー心理学における「怒り」を理解する上で、基本的な前提となるのは「怒りは出し入れできる道具である」という考え方だ。岸見氏の著作では、このことに関連して、次のような情報が繰り返し示される。
- 激しく怒っている最中の人は、無関係の電話がかかってくれば落ち着いた声色で対応をして、電話が終ったらまた怒りだす。怒りが出し入れできる道具でないのなら、そんなことは出来ないはずだ。
- 悲しみ、失望といった感情が1次感情であるとすれば、怒りはそれらをもとに発生する2次的な感情である。
- つまり、怒りは自然発生するものではなく、目的を達成するために人が作り出すものである。
- 「ついカッとなって」「怒りのあまりつい」というように、怒りを自分ではどうすることもできない自然現象として行動の弁解をする場面が散見されるが、これは実はおかしい。「怒りのあまり、声を荒げてしまった」と言っている人は、本当は「声を荒げるために、怒りを作った」のである。
これらの情報は、砂に染み込む水のように、すごい勢いで私の中に浸透して行った。
私は半ばそれを知っていた
私にとって、アドラーの「怒り」についての見解を知るということは新しい体験だったが、読みながら、私は半ばそれを知っていた、というような感覚に捉えられていた。それは、以前から次のようなことを知覚していたからだ。
- 私が怒ったこれまでシーンで、多くの場合に「怒ってもよいか」を判断するフェーズを挟んでいたような自覚があった*1。それはつまり、まさに怒りは2次的な感情であって、私が怒りを生成するかどうかを決めていることの証左と言える。
- 怒った他人(例えば母)が「怒り」を出し入れしているシーンは沢山見ていた。たしかに「怒り」は出し入れできる。
しかし、あくまでも私が知っていたのはそこまでだった。残りの半分については、アドラー心理学が初めて私の目をひらいてくれた。その半分とは、人は目的を達成するために怒りを作り出すという部分である。
目的論という衝撃
そもそも、アドラーは別段「怒り」に主にフォーカスしているわけではない。アドラーは「人間は原因があるから現在のようであるわけではない。目的のために現在のありようを自ら選択している。」ということを主張している。育った環境や過去のトラウマに着目して原因を分析する「原因論」に対する「目的論」である。
怒りについても、この全体的な「目的論」の文脈の中で「怒りが人為的に作られるものであるということは、人が目的のために作っているのだ」という話になる。
目的論自体も、怒りについてのこの洞察も、ともに私にとっては非常に興味深く、まさにライフチェンジングだった。
じゃあ、目的ってなんだ???
怒りについての私の悩みのひとつは「私はよく怒りを感じる。そのために、物事がスムーズでない。できることならば、もっと怒らないようになりたい。せめて、怒ったときの対処を学びたい。*2」というものだった。
「怒り」を私が意図的に生み出しているのであれば、「怒らないようになりたい」という願いは、決して夢物語ではない。十分に実現可能な目標だ。
しかしそのためには、私がどんな目的を達成しようとして怒りを生み出すのかを知る必要がある。幸い、アドラー心理学の本には、私が怒りを生み出す目的についての示唆も豊富にあって、私の研究はたいへんはかどることになる。それについては今後の記事で紹介していくことにしたい。