今の自分よりも前に進もうとすることに価値がある
アドラー心理学との出会いによって目を開かれたことは沢山あるが、そのうちの1つは「今の自分よりも前に進もうとすることに価値がある」という考え方だ。他人との競争に勝つのではなく、昨日の自分のやらなかったことに取り組んだり、昨日できなかったことが少しできることになったりすることに価値を求めた方が幸せになれる、ということだ。大勢で広い道を一斉に歩いている中で、自分が周囲の人より少し先を歩くことがそんなに大事なことなのか。それよりも、人々の全体が前に進むことについて自分なりに貢献するというイメージを持つのが大事である。私はそんな風に受け取った。
なぜ衝撃を受けたのか
みんなが前に進むことに自分なりに貢献していくというイメージを肯定することに大きな抵抗感はなかった。しかし、これまでそのようなイメージを持つことができなかった理由があるような気がした。そこで自分が育ってきた環境について思い返したみたところ、そこが異なる価値観に満ちていたということに気づいた。そして、このイメージを持っていなかったことが、私の怒る習慣を助長してきたことにも気づいた。そこで、自分の子供に対しては別のアプローチを取ろうと努力している。この話はとても長くなるので、怒る習慣を助長してきたという話はまた別の記事で書くことにして、今回は自分の育ってきた環境についての分析や、自分が子育てで気をつけ始めた事柄について書いていきたいと思う。
私が育ってきた環境における価値観
私が育ってきた環境では、基本的に「結果」「成果」が重視されていたと思う。これを本記事では結果主義と呼ぶことにする。結果主義の基本的な考え方は次のようになる。
- 基本的に努力よりも結果が大事である
- 個人個人には結果によらず得るものもあるだろうが、社会的に重要なのは結果で、結果だけが評価される
このような考え方が必要になる場面もあると思う。たとえば会社もある程度そうだろう。目的がはっきりしている集団において、目的を達成できるかどうかは非常に重要なことであり、結果が出なくても頑張ったのだから良いとは言えないこともある。しかし、会社で必要なことと、人生に必要なことは異なる。会社などでの社会的な成功を人生の成功そのものと捉えて、この価値観を子供への教育にそのまま適用してしまうことは危ない。できることなら、社会的成功よりももっと広い観点で、人生を幸せに生きられる力を育てられることが理想的だろう。
だが、現実はそううまくは行かない。子供を社会的成功に導くために、家庭や学校を社会の縮図に近づけて、子供を「結果を評価するサイクル」の中で訓練するというやり方も割と一般的なように思う(ほかのアプローチを知らなければ、ほかにやりようもないことも事実だろう)。私の育ってきた家庭・学校の環境においても、結果的にそういう要素が割と強くなっていたのではないか、ということを最近感じている。
結果主義的な子育てのアプローチ
子供への教育に結果主義を適用するということは具体的には次のようなことを指している。
- 子供の意欲や工夫ではなく、成果・実績に着目する。たとえば「何位だったの?」「褒められた?」「みんなは何点くらいだったの?」ということを知りたがる。
- よい成果を褒め、悪い成果を残念がる。
- 「挑戦したこと」「がんばったこと」「工夫したこと」ではなく「うまくいったこと」「他人よりも優れた結果を出したこと」を褒める。
私の育った家も、学校(特に小学校)も、概ねそんな感じだったと思う。当時はさして疑問には思わなかったが、思い返せば、今でも覚えているようなショックな出来事というのはあった。
- はじめて5段階の成績表をもらったときに、私は図画工作が5で嬉しい気持ちでいたにも関わらず、図画工作しか5がなかったことを母がものすごく残念がり、私の目の前で長々と嘆いていたこと。
- 25mを泳げるようになって間もない時期に小学校で選別的なことがあって、一応泳げるようになったので泳いだところ、まだ息もあがっている状態に追い討ちをかけるかのように、タイムが非常に遅かったことを先生に揶揄されたこと。
思い返せば、母や先生が結果主義に囚われていなければ、もっと別のアプローチが取れたことだろうと思う。
結果主義は努力をコストとみなし、才能を羨望する
結果が大事であるという価値観の中では、努力は、成果をあげるためのコストと見なされる傾向があるように思う。多くのお金を払ったのにそれに見合う価値を得られないことを人は経済的な「損」と考える。それになぞらえて、多くの努力をしたのに求める結果が得られないことを時間的な「損」と考えるのだ。
「損」の逆は「得」である。それでは、結果主義においての「得」は何か? それは、あまり努力をしないで多くの結果を得るということだ。だから、結果主義は「才能」の信奉へと向かいやすい傾向があるように思う。
具体的には、次のような価値観が生まれる。これを本記事では才能主義と呼んでおく。
- 努力をそこまでしなくても結果が出せること("才能がある" こと)を最高の状態と考える。
- 努力をして結果を出すことは、才能がないことは残念なものの、それにも関わらず努力で物事を成し遂げて偉大だと評価する。これを2番目に素晴らしい状態と考える。
- 努力をしても結果が出ないことは一番最悪な避けたい事態だと考える。また、結果の出ない努力は、僅かな教訓や偶発的な収穫はあるものの、本質的に無価値だと考える。
例えば小学校などの学校において、勉強をしているということを他人に知られるのが恥ずかしいという感情を抱いた覚えのある人は多いだろう*1。勉強ばかりする人を揶揄するガリ勉というような言葉も存在する。私はこの中に、才能主義の影響を感じている。勉強をする必要があるということ自体が、大した才能がないことの証明のように感じられてしまうのである。*2
才能主義の家では、子供への接し方は次のような感じになる。
- 子供が良い成果をあげたときは、才能を褒める。
- 子供が良い成果をあげられなかったときは、才能がないことを残念がる。
これは、そうではない家に育った人にはほとんど喜劇に感じられるかもしれない。具体的には次のような感じになる。
- (子供が良い成果を出した時)「あなたは本当に才能があるわね〜」「先祖の○○がやっぱりそういう才能があったのよ〜」「遺伝ね〜」
- (子供の成果が期待はずれだった時)「おかしいわね〜、もう少しできると思ったのに〜」「どうしてかしら〜」「誰に似たのかしら〜」「○○の悪いところをもらってきちゃったわね」「遺伝ね〜」
- (友達について)「大して頭良さそうでないのに成績いいのね」「あの子は頭いいわ、目つきが違うわ」「頭はそんなに良くなさそうだけど、性格はいいわよね」「○○の才能がありそうでよかったわよね」
結果主義・才能主義の子育ては「前に進む」ことを阻害する
結果主義・才能主義の薫陶を受けて育つと、人生を、努力という「コスト」を節約しながら成果という「果実」をなるべく多く得るゲームとして捉えるようになりやすいように思う。
これによって何が起きるか? たとえば次のようなことが起こりやすいのではないかと私は思っている。
- 成果が出るか分からないことへの努力の「投資」をためらう。
- 「努力」が苦手になる。好きなことであっても、地道な練習などをすることをイメージすると、それが好きではないように感じられてさえくる。
- 努力をすることをやめることが楽しくて仕方がない(サボること、辞めることが楽しい)。
- 少ない努力で多くの成果が得られることをやりたがる。(その結果、努力を通じて本来到達できたかもしれない本当に行きたかったところへ到達する機会を失う。)
- 他人が成果の出そうもない努力をすることを親切心から阻止しようとする。
- 他人によるまだ成果の出ていない努力を軽視したり、ひどい時には嘲笑したりする。
結果を出すことに囚われると、結果として前に進もうとすることを損ない、人生において本来進めたはずの距離を進めなくなってしまう。ただ自分にとっての「前」に進めばいいだけなのに、自分が無駄な努力をしているのではないか、損しているのではないか、損していると他人から揶揄されるのではないか、敗者とみられるのではないか、といったことを考えてしまう。それに、損失の危険ととなりあわせで努力をしているという考えは、努力そのものを辛く苦しいものにする。そして、真摯に(その人にとっての)「前」に進もうとしている他人を心から応援したり助けたりする機会をも逃してしまう。もしこのようなことが起きているとすれば、これは人生にとって大きな損失であるように思う。*3
子供への接し方と手応え
私には4歳の娘がいるが、娘の振る舞いの中にも、結果主義や才能主義につながる兆候を感じている。それは次のようなことだ。
- 失敗することを怖がる。失敗するかもしれないからやらないでおこうと考える。
- 練習することは、練習が必要だということが無能さの証明に感じられるため、嫌がる。練習は必要ないと主張したがる。
- 人に教えられることは、無能さを感じることにつながるので嫌がる。教えられる必要はなく、すでにできている、上手であると主張する。または、自分は子供だからできなくても仕方がないと主張する。
- 自分の知っていることを他人から教えられると立腹する。*4
私は自分の経験から、人に教わることができない人は社会で成功することが難しいということを知っている*5。また、結果だけにこだわることは、柔軟な心で色々なことを試すことを妨げ、適切に他人の助けになることをも妨げ、結果的に人生を損なうと感じていることは先に述べた。そのため、私はなんとか娘のマインドを違う方向へ導きたいと感じている。そこで、できるだけ次のような点に気をつけて接するようにしている。なお、これは私の育った家のやり方とは大きく違うため、実践にはかなり気をつける必要があり、たまに間違えたりもしている。
- 結果ではなく、意欲や工夫に着目する。「うまくいったの?」ではなく「がんばったの?」「どんな工夫をしたの?」「怖かった?」というような感じ。
- できたことではなく、やろうとしたことを褒める。*6 「がんばったね」「勇気を出したね」という感じ。
- できなくても当たり前であること、練習が大事であること、自分も日々練習に取り組んでいる、ということを日常的に伝える。
- 娘が不安に思っていることについては、やり方をイメージできるように具体的な話をしたり、練習すればできるようになるとか、練習を手伝うというようなイメージを伝える。
そのようにしている中で、先日、私にとってとても嬉しいことがあった。
娘は挨拶が苦手なのだが、娘が近所の親しい大人たちに「さようなら」とか「おやすみなさい」としっかり声をかけて別れたあとで、「ダンスで先生に教わった “みんなの気持ちをひとつにする” を使って挨拶をがんばってみたの」「自分のこころを使ってみたの」「練習してみたの」というようなことを言ってきたのだ!
まだまだ先は長いと思うが、娘が「予めできていること」ではなく「挑戦したこと」「練習したこと」にフォーカスしたアピールをしてきてくれたことがとても嬉しかった。自分の接し方の方向性について手応えを感じることができた。
結果主義と「怒り」
結果主義は、本ブログの主要なテーマである「怒り」とも深く関連していると思っている。怒りについて考える中で、私は怒りにはいくつかの種類があるということに気づいた。そして、私が「怒らない練習」に取り組む中で、まっさきに制御に成功しはじめたタイプの怒りが、結果主義とも深く関わるものだったのだ。今後の記事でそのことについて触れていきたいと思う。
*1:ちなみに、このような感情が生まれる構造を理解しない限り、単純に勉強量を競うようなソーシャルな学習系サービスはまずヒットしないと個人的には思っている。
*2:それ以外にも、抑圧的・閉鎖的な学校空間のなかで “良い子” と見なされるであることへの照れや恐怖のようなものの影響もあるとは思っている。
*3:余談だが、私は映画『ズートピア』で描かれている内容は、ここで書いたようなことにも通じる気がしている。例えば主題歌からは、成功や失敗を最終的なゴールとせず、挑戦し続けること、学び続けることに重きを置いていることが読み取れる。
*4:最近、こういう時になぜ怒るのかを聞き出すことに成功した。「偉そうに」言われるから腹がたったそうだ。
*5:これはアドラー心理学とは無関係で、会社のような組織で成功する上において非常に不利であるということをこれまでの経験から感じている。
*6:アドラー心理学では「褒める」ことを推奨していない。しかし私は、日本語の「褒める」という用語の指す範囲はアドラーの禁じる「褒める」よりも広いと考えており、アドラー心理学でいうところの共感に近いけれども子供の心を明るくするような言葉も日本語では褒めるに含まれると考えて、ここでは褒めるという用語を用いる。